「失礼しました」


 抑揚のない声を発し、深々と頭を下げたボ

ーイは蒼くんだった。

 守るみたいにさり気なく私の前に立ち入り、

目の前のセクハラ客に冷静におしぼりを差し

出す。


「申し訳ありません。足元、濡れたでしょう

か?」


 蒼くんはそう言葉を続けながらカウンター

の下に屈みこみ、躊躇なく男のジーンズの裾

に触れた。


「……ああ……いや……」


 誠意あるボーイの対応に怒ることもできず、

林は曖昧に返事をしながらゆっくりと姿勢を

正す。

 と同時に、こちらに伸びていた腕がスッと

自然に離れていった。



(あ……助けてくれたんだ……)

   


 蒼くんの広い背中を見つめながら、その逞

しさに、私の胸はキュンと跳ねる。



 ちゃんと手の届くところにいるから――。



 大好きな人から、そんな言葉をもらった気

がして。思わず顔がほころんでしまう。





「すみません、林様! お怪我などはありま

せんでしょうか!?」


 マネージャーが再び血相を変えて、私たち

の元へ歩み寄ってきた。


「新人ボーイなもので……」


「大丈夫。アイスがかすっただけだからね」


「本当に、すみません。よく言い聞かせます

んで。とりあえず、あちらへ……」


 低姿勢で大げさに謝罪すると蒼くんにその

場の掃除を言いつけ、林を別の席へと誘導す

る。


「ほら、アリスさんも急いで」


 VIPの機嫌を損ねたくないマネージャー

は、慌てた様子で私にそう促した。


「あ、はい……」


 15番テーブルへと歩き出す2人を見送り

ながら、私は蒼くんの横顔にチラリとだけ視

線を落とす。


(お礼くらい言いたい……けど……)

   


 必要以上の会話は許されなくて。

 後ろ髪ひかれる思いで、カウンター席から

ゆっくりと脚を下ろした。


 その時、膝にのせていた淡いピンクのハン

カチがひらりと舞って床に落ちる。


「あ……」


 私が前屈みになるよりも早くソレを拾い上

げた蒼くんは、ボーイとキャストの距離を上

手に保って眉1つ動かさずに手渡してくれた。


「ありがと……」


 優しい顔が見たい……なんて、無理なのは

百も承知。

 でも栄養剤が欲しいなぁ……。


 
 力なく口角を上げて、そんな想いを廻らせ

ていたら。



「さっきの件、了解したから」


 正面に向き合った一瞬を逃さず、彼は耳元

でそう低く囁いた。



「……?」


 何を言われたのか理解できず、でも聞き返

すこともできず。まつ毛をパサパサと数度揺

らせる私。

 その様子から意味を把握できていないと悟

った蒼くんは、表情を変えることなくもう一

度だけ真っ直ぐに視線を合わせてくれる。



「お前の行きたいとこ、考えとけよ。終わっ

たら、どこでも付き合う」


「!?」



 ……それって、さっきの返事……だよね?


 ご褒美をくれるって、思ってイイんだよね

……?



(うきゃぁ〜! 蒼くんとデートだぁ……!)

   


 空のアイスペールを手にいったん奥へと下

がっていった蒼くんは、すれ違いざま最後に、


「けど、無理はすんな――」


 なんて、唇を動かした気がしたんだけど……。



 すでにふわふわした感情でいっぱいの私は

妙にやる気マンマンで、その後のセクハラも

何のその、精一杯ロリータキャバ嬢を熱演す

る。


 上目づかいで甘えて。

 あなただけだよ、と頼って。

 プライベートな弱さと隙を、明るさの中に

垣間見せたりして……。



 もちろん、しーちゃんのマニュアル通りに

……だけど。




 おかげで第2関門もクリアー。

 林から見事、『延長』を獲得することがで

きたんだ。


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