◆ 6.完敗
潜入派遣先トシーズビバレッジに私が復帰したのは、1月も終わる頃だった。
盲腸で入院してました! っていう欠勤理由は通用したものの、嘘をついた後ろめたさもあって、就業まで何となく気まずく過ごす。
そんな職場での居心地の悪さを吹き飛ばしてくれたのは、やっぱり奈良ちゃんの明るさだった。
身体を心配してくれて、休みの間に進んだ仕事内容も丁寧に教えてくれる。
彼女が向けてくれる笑顔が嬉しくて、ずっと友達でいれたらいいなぁって思った。
そのためには、私が妖力者から守らなきゃいけない。
奈良ちゃんのキレイな心を喰われるわけにはいかないの。
「待って! JRやろ? 今日あたしもそっち回りやから一緒行くわ」
定時で無事に仕事も終わり、数人の社員さん達とオフィスを後にした。
散り散りになるはずの交差点で、奈良ちゃんはポンッと私の肩を叩く。
「高島屋のロクシタンで、限定のクリーム予約してんねん」
「あ、じゃあこっちだね! 南口の前をちょうど通るから……」
もうちょっとお喋りできる! って嬉しくなって声を弾ませるけど、改札で蒼くんと待ち合わせてることを思い出して語尾を詰まらせた。
奈良ちゃんを自然な形でガードするためにも、あまり多くの天力者と面識を持たせない方がいいんだよね?
どうしよう……。
躊躇って会話を途切れさせた私の顔を「ん?」って覗き込んでから、奈良ちゃんは「は〜ん」なんて含みのある笑みを浮かべる。
「カレシと待ち合わせなんちゃう?」
「えっ……何で分かるの?」
「まあ、何や反応変やったし。自分の男をあんま見せたくないんかなぁ〜思おて」
「ちがっ! そんなんじゃないよ! そんなんじゃないんだけどぉ……」
さんざん恋のアドバイスを受けといて、今さら隠すのも感じ悪いよね。
初Hのことまで相談しちゃってたから、ちょっと恥ずかしい気もするんだけど……。
本当は奈良ちゃんに蒼くんを紹介したい。自慢のカレシを見てもらいたいって思ってる。
でも、でも。うーーーーん。
判断に迷って口ごもっていると、彼女は柔らかく口角をあげた。
「ちょっと、挨拶だけさせてもらってええ? 聞いてると思うんやけど、先日あんたのカレシに面倒かけちゃったから」
「え? そーなの?」
蒼くん、奈良ちゃんに会ったの? 知らなかった! でもそれなら問題ないかなぁ?
驚きと安堵が入り混じった気持ちでいると、奈良ちゃんは声を弾ませて話を続ける。
「あの人、何かこーむっちゃパーフェクトな男やね。顔もルックスも文句のつけよーがないくらいやのに、気取ったとこなくて喋りやすいし」
「うん……♥」
「でもって何より、あんたメチャメチャ愛されてるやん。あの人の頭ん中、でいっぱいって気ぃした。あんたの友達じゃなかったら、あたしなんか眼中なかったやろうし」
「そんなことはナイよ、絶対。根が優しい人だから私も仲良くなれたんだもん」
「相思相愛やねぇ。クリスマスも見事、目的達成したようやしなぁ?」
「う、うん。おかげさまで……」
「あははっ! あんたがホンマ羨ましいわ。好きな男の、ただ1人になれて」
急にトーンを下げた彼女は、言い終わってから夕日が沈むのを眺めて遠い目をした。
「奈良ちゃん……」
こんなに魅力的な女の子が、未だ叶わない恋に苦しんでるなんて切ない。
経験不足の私はどんな言葉をかけていいのか分からなくて、ただ静かに微笑んで俯く。
自分の幸せな恋を語れるのは、相手も幸せである時だけなんだって悟った。
冷たい風が頬をなでる。
私たちは鈍い足取りのまま改札に続く階段を上り始めた。
半分まできたところで、奈良ちゃんは再び口を開く。
「実はなぁ。高島屋の前で、朱理と待ち合わせしてんねん」
「え!? どーして? 何かあったの?」
「なんか、って。残念なことに、報告できるような美味しいネタはないんやけど」
「じゃあ、呼び出されたの? 朱理から? 変なことされてない?」
「何や、矢継ぎ早に。何であんたがそんなに慌ててんの。あー、デートとかとちゃうで。先週ウチに寄った時ブレス忘れててん。それを返すだけで」
「先週って……」
私が朱理に「近づかないで!」って文句言った後だ。
まだ会ってるの!? それも奈良ちゃん家でブレスレットを外すシチュエーションって、どんなのよ?
大声が出そうになるのをどうにか抑え込んだ。
振られてもやっぱり諦められなくて、直向きに恋してる奈良ちゃんを責めることなんてできない。
いくら相手が軽い男でも。女の子を軽く扱っちゃうような、誰にでも甘い言葉を囁いちゃうようなヤツでも。私に止めることなんて出来ないって十分わかってる。
でも朱理はダメだよ!
食堂にフラリと現れた時に見せた、外見からは想像できない深く異様なオーラを思い出して背筋が凍る。
彼はいろいろ知っていた。天力者と妖力者の関係。家のこと。何より私の力の強さを見抜いて近づいてきたの。
絶対におかしい。
ただ恋愛を楽しむために、奈良ちゃんのそばをウロついてるわけじゃないって断言できる。
「もう……。朱理には会わない方がイイよぉ……」
我慢できずに漏らした言葉に、奈良ちゃんは怪訝そうな表情をした。
「なんで? 何でそう思うん?」
「っ……あ……だって……。奈良ちゃんならもっと素敵な人いると思うの。優しくて、奈良ちゃんだけを本気で好きになってくれる男の人が……」
視線も合わせられないくせに、必死に説得だけはしようとする。信頼に足りない私に、彼女は「ありがとーね」と言ってくれた。
「が心配してくれる気持ちは嬉しい。付き合ってもいない男に時間も躰も許して、あたしも大概アホやなぁとか思うもん。
でも自分を好きって言ってくれる男やから、好きになるん? ちゃうやろ?」
「あっ……」
「道徳的に許されて、可能性がゼロじゃない限り、ムリに諦めたところで後悔するだけやと思う」
「奈良ちゃん……」
私だって同じだ。
どんなに周りに蒼くんのことを反対されたって、蒼くんが誰か他の女の子を選ばない限り簡単に諦めることなんてできない。
普通の恋愛ならそう考えて当然だよね?
だけど、朱理は。あの人にはきっと別の目的があって……。
「…………」
反対する理由を細かく説明するわけにもいかなくて、私は曖昧に笑って誤魔化した。
奈良ちゃんもそれ以上、朱理の名を口にしなかった。
ちょっとだけ気まずい空気が流れる。
待ち合わせの南口が見えてきた。
横断歩道の信号が青になってもなお、改札付近に人の渦が絶えることはない。
「もうカレシ来てるんちゃう? あの人目立つから、この人だかりの一因やったりして」
場の雰囲気を取り繕うと、奈良ちゃんはイタズラっぽく私の背中を叩いた。
それに安心して、私も何もなかったように明るい声をあげる。
「あ、いたよ!」
「え? どこどこ?」
「ほら、あそこ。一番左の改札の横。お〜い、蒼く〜ん」
「え? ソウくん!? ……って誰?」
隣りにいた奈良ちゃんが小さく驚愕した。
それと同時に振り返った蒼くんも、静かに目だけで驚いていた。
「コンバンハ。初めまして……奈良橋です」
雑踏の中では届かないんじゃないかってくらい細い声で、奈良ちゃんは軽く会釈をした。
ん? 初めまして? だってさっき蒼くんに会ったって……。
不思議に思って彼女の表情を確認した途端、グイッと強く腕を引っ張られて蒼くんから引き離される。
「! 何なん、あの人! あんたのカレシって『紫己』ちゃうの!?」
蒼くんに背を向けて、聞こえないように小声で激しく問われる。
しーちゃんの名前が出たことにびっくりしてしまった。
そっか。そう言えばクリスマス前にお茶した時から、誤解されたままだったんだ。
じゃあ奈良ちゃんが面倒かけた相手っていうのは、しーちゃんの方だったの……? ウソ!?
頭の中で整理がつかなかったけど、とりあえず否定だけはしなきゃ! って、胸の前で両手を大げさに振った。
「しーちゃんは違うよ! 蒼くんが私のカレシなの。しーちゃんはただの幼馴染で、お世話してくれてるだけで」
「ただの幼馴染って……。心配して一番に駆けつけたり、酔っ払ったあんたを抱きかかえて連れて帰ったりしたのが?」
「うん、一応そういう担当っていうか、役目っていうか……」
「担当って、今時キープ君でもあるまいし。この前会った時も、あんたの話ばっかしとってんよ?」
「あ、そうなの? うんまあ。ずっと一緒にいるからかなぁ」
「一緒にって……。だってあの人は、きっと…………」
奈良ちゃんは見る見るうちに表情に影を落とし、消え入りそうな声で呟いた。
誤解を招いたことを言い訳しなきゃと思うけど、どこまで話していいか分からなくてしどろもどろになる。
戸惑っていると少しして「ちょっとこっち来い!」って蒼くんの声が頭上に降り注ぎ、今度は彼に体を引き寄せられた。
「どうして連れてきたんだよ? 顔を見られるのは得策じゃねーって事になってなかったか?」
「あ……うん、ごめんなさい。ちょっと勘違いしちゃって、蒼くんに挨拶したいってことになっちゃって……」
「だからって、簡単に受け入れんなよ。今後警戒されたらガードしづらくなるだろ? 天海の存在がバレてんだから、せめて俺だけは水面下で動かねーと」
う……ゴメンナサイ。
奈良ちゃんと蒼くんと、私。笑顔で会話ができるわけもなく、微妙にズレた優れない空気を生むだけで…………。
新宿を離れて地元の駅まで戻って、私と蒼くんはいつものファミレスで夕食を済ませた。
もうすぐバイバイしなきゃいけないね……。
自宅へと続くバス通りを歩きながら、私はさっきの出来事を掘り返す。
「今日はゴメンネ。余計なことしちゃって、蒼くんの仕事が大変になっちゃったら……」
「まったく、お前は」
しゅんと俯く私の頭をポンポンッと2回撫でて、蒼くんは優しいカオをした。
「奈良橋まつ子に警戒されたら、負担がかかるのはの方だろ? 俺が動きづらくなる分お前の接近に頼んなきゃなんねーから、その分危険だって増すわけで」
「あ……」
「天海の話だと上級妖力者の気配があるらしい。今まで浄化してきたのとは桁違いのレベルのモノで、何がどこから狙ってるか分からないから慎重にいけって」
「……」
蒼くんが私の心配をしてくれるのは素直に嬉しい。でもそういうコトなら大丈夫かもってホッとした。
しーちゃんが感じた気配は、きっと朱理だ。
そしてあの人は私たち3人が仕事のために奈良ちゃんにくっついてるのを知ってる。
大学にも出入りしてるからしーちゃんと蒼くんの顔も見てるし、私の天力を見抜けるくらいだから2人の力も把握してるに決まってる。
今さら隠せることなんてナイって思うの。
朱理の台詞や表情を思い出し、またもや得体の知れない不安に襲われた。
黙りこんで隣りを歩いていると、蒼くんは前を向いたままさりげなく私の右手を繋ぐ。
「何考えてる? お前ここんとこ、ぼんやりする事が多いよな。この前屋上で会ったあたりから」
…………。
朱理のこと、蒼くんには話しておいた方がいいかな?
でも無理して欲しくない。
知ったらきっと私を遠ざけて、自分で飛び込んでいってしまう気がするよ。
繋いだ手に指先を絡めて、私は蒼くんの温もりを感じた。
角を曲がって、東門に続く細道に入る。
近所の神社を通り過ぎようとした時、横からスッと人影が飛び出してきた。
クリスマス前にしーちゃんに見つかったことが脳裏をよぎって、私たちは反射的に寄り添っていた体を離す。
「ちゃんっ」
「!?」
現れたのは意外にも朱理だった。
前髪をピンで留めたお馴染みのおデコ出しヘアーと、小柄な体系が可愛らしい雰囲気をかもしだす男の子。
この姿を見て「怖い」と感じるのは、たぶん私くらいなんだと思う。
何でこんなとこに!?
声を失ったのは一瞬で、この人が私を待ち伏せる理由があるんだって考えたら、驚くくらいすぐ冷静になれた。
「偶然だね〜。ここの神社に願掛けにきたとこなんだ。そう言やご近所だっけ?」
白々しい笑顔を向けてから、朱理は横にいた蒼くんに視点を合わせる。
「こんばんは!」
「あ、こんばんは」
朱理から投げられた挨拶に少し戸惑いながら頭を下げる蒼くん。
そうだ。初対面なんだ。きっと家の関係者かなんかと勘違いしてる。
私は庇うように前に立って、朱理をキツく見据えた。
一歩こちらに近づいて口角を上げる朱理。
「せっかく会えたんだしちゃん、ちょっと話でもいいかな〜?」
体内から発する『気』を今日もオブラートに包んで隠しているけど、その異様さは前回よりも鮮明に感じとれる。
相変わらず嫌なオーラ。
これを自分でコントロールして私に見せつけてるとしたら、相当厄介な相手だと思う。
人懐こく笑う朱理に対し、必要以上の緊張を走らせて素っ気なく返す私に、蒼くんは不思議そうな様子を見せた。
経験の浅い蒼くんの目には、この気は映ってないみたい。力の差がありすぎるの。
ダメ! やっぱ絶対に、この人を蒼くんに近づけちゃいけない!
数分前に口をつぐんだ自分の判断を、心の中で褒めた。
「蒼くん、今日はありがとう。また明日ね」
「でも……」
「大丈夫だよ、朱理は奈良ちゃんの好きな人なんだ。だからちょっとだけ話をしてから帰るね。寝る前に電話するから」
蒼くんの後ろ姿を見送って、私と朱理は境内の片隅に場所を移動した。
家の敷地と隣接しているココは小さい頃から私の遊び場で、何かあればすぐに家まで駆け込める距離にある。
今月は朝夕問わず人の出入りが激しかったけど、さすがに夜9時すぎの今、お参りする人の姿はなかった。
良かった。フゥと安堵の息が漏れる。
この前は食堂でたくさんの人の目があったから、さすがに浄化の体勢には入れなかった。
ここなら力で対抗できる。
そんな敵意まる出しの私に、朱理は八重歯を見せて言った。
「今のがカレシ? カッコいい人だよね、硬派っぽい感じで。う〜ん、ってことはモデル君の方とは終わったってことか〜。いろいろ噂あったみたいだけど、
あっちは他にも女の影あるしプライド高そうだし。うん、イイ選択かも」
赤茶の髪をふわりとかき上げ、木の柵に寄りかかって足を投げ出す。
「でも、でも〜、やっぱ大変なんじゃない? 天力者のお姫様ともなると恋愛も自由にできなさそうで――」
「何の用ですか?」
ムダなお喋りを続ける朱理を、私はキツく一蹴した。
ちょっと面食らった顔を見せて耳元のピアスを揺らし、彼は鼻で笑ってから「じゃあ、本題いっちゃうよ」と目を細める。
「さっき、奈良ちゃんに会ってきたよ〜。先週見た時よりも格段に妖力の浸透レベル上がってたけど、アンタ何かしたの?」
何かしたの? って。意味が分からない。
お腹を満たしたくて精神をじわじわ喰らうのが、あなたの今回のやり方じゃない。
「もう少しってとこかなぁ。妖力に支配されて、自分の理性を完全に手放すのは」
「こんな飼い殺しみたいな喰らい方、すっごく悪趣味。楽しんでるの?」
「へ? オレが? まっさか〜。だったらこんな、まどろっこしい近づき方しないし」
朱理は嘲笑を浮かべた。
「その程度なの、ちゃんってば。いつもの妖人とはタイプが違う〜、ってコトくらい気づいてくれなきゃ」
「……それくらい!」
「ちゃんと内を見てみ。あの子は餌じゃない。霊魂の『憑依』だよ」
「え……」
「過去に天力者が浄化し損ねたまま、浮遊してる妖力者の魂ってのがあって。その1つが奈良ちゃんの体を気に入っちゃって、生かしたまま取り憑こうって頑張ってんの」
「ちょっと待って……どういう……」
「えー、ここまで説明しても分かんない? 精神や肉体を喰われただけで終わるのが『妖人』なら、憑依された人間は身体を乗っ取られた後喰らう側の存在に変わる。
アンタ達で言う――レベル4? 完全憑依できた時、奈良ちゃんはもう人間の姿をしただけの妖力者ってわけ」
「!?」
メンドウくさそうに発した朱理の言葉は、想像もしていない事だった。
そう言えば私は妖力者の仕組みをイマイチ知らない。今いる全部を浄化してしまえば、いつかは排除できるものだって信じてた。
増えるの? 普通の人間を取り込んで? それじゃエンドレスじゃない!
呆然と立ち尽くしていると、朱理は自分勝手に眉を潜める。
「まー再生できんのってごく僅かで、ぶっちゃけ苦戦してんだよね〜。予想以上に奈良ちゃんの意思が強くて適合しなくてさぁ」
そして飛び跳ねるみたいに近づいてくると、私の両腕をゆっくり取った。
「だけどオレの言動にはよく反応するみたいよ。さっきもちょっとアンタの名を出して褒めただけで、妖の浸透が深まるっていうラッキーあったし」
「なっ……それは彼女があなたの事を好きで……」
「だからちゃん、協力してくんない? あのお姉さんの身体に霊魂がとり憑きやすいように、『嫉妬』とか『劣等』っていう感情を煽って欲しいんだ。
理性を飛ばして本能のままに動きたくなるように仕向けたい。そうすればあの器を完全に手に入れられる」
「――っ!!」
朱理の大きな目に自分の姿が映ったのを見つけて、私は恐怖を走らせた。
冗談じゃない。奈良ちゃんを妖力者になんかさせない。この人をこれ以上野放しにできないよ。
今すぐ浄化しなきゃ――――!
勢いよく腕を払い、滑るように5歩ほど後ずさった。
揺れ動く精神をどうにか統一させて、大地に廻る自然のエネルギー体である『気』を全身に素早く集める。
幸運なことにココは私の庭。見方をしてくれる生命体も多くて、いつも以上に強い気が体内に宿った。
この力を本気で天力に変換するのは久しぶりだと思う。
光の渦を祈る気持ちで右手に集中させると、オーラで形成された細い剣が現れた。
「んっ……」
慣れない感触に握った手を緩めたくなる。もちろん、しーちゃんのようには扱えない。
でも今は、これで戦うしかないの。
お父さんに叩き込まれた古武術の感覚を思い出しながら、私は思い切り剣をふった。
自ら浄化した経験なんて数えるほどしかない。
相手の息づかいを読みながら間をとって、オーラの化身をしならせて突いてはみるけど……。
朱理の方が何枚も上手だった。
ヒョイヒョイと軽く交わされて、擦ることさえできない。
「う〜ん。ぜんぜん駄目だなぁ。稽古サボってました! って感じ? 今のちゃんじゃ勝目ないよ。他人はおろか自分の身さえも守れなくて、みんなの足を引っ張るだけだ」
「っ……ハァ」
ちょっと天力を巡らせただけなのに、息が弾むなまった体。悔しいけど何も言い返せない。
お父さんから逃げて、しーちゃんに甘えて。好きなものだけを選んで手にとってきた結果がコレなの。
奈良ちゃんを守りたい。
蒼くんに迷惑をかけたくない。
でも想いだけでは、何も叶えられなくて………………。
心が負けて足が止まってしまった私の目の前に、朱理はスッと何かを差し出した。
緑がかった鉄製のフレームに縄状の模様がある――鏡?
彼の手のひらに収まるサイズのそれを見ても、最初はピンッとこなかった。
でも、見えるの。小さな銀鏡の奥に蠢くとてつもなく膨大な妖力。
これほど気味が悪くて魅力的な鏡を、忘れることはない。
「祟峻の鏡……」
間違いないって思った。
姿形は変わっていたけど、子供の頃に家の宝物庫に納められていたモノと同じ。
何でこの人が?
聞くまでもないけど、言葉にせずにはいられない。
「やっぱり、あなたが祟峻なの……?」
その問いに、朱理は答えてくれなかった。
「コレが欲しいならオレに協力すること。OK? そうだなぁ。次に会った時、キスの一つでもしてみせてね」
屈託なく笑むと、ここで私と相対することなんて無意味だとでもいうように、あっさりとオーラを閉ざす。
そして硬直したままの私を置き去りに、そのまま音もたてず闇へと消えて……。
「! 何だよ、さっきの!」
フラフラと家の門までたどり着くと、道着姿のしーちゃんがすごい剣幕で中から飛び出してくる。
私が発したオーラが家まで届いたんだと思う。
道場で稽古中だったしーちゃんは敏感にそれを感じとって、珍しく顔色を変えていた。
「大丈夫。何でもないから」
「はぁ? あれだけの力を使っておいて、何でもないわけナイでしょ?」
「大したことないもん。たまには練習くらいイイじゃない。ほら、無傷なんだし」
「無傷、ねぇ。こんなに精神乱しといて? に何かあったら僕だってタダじゃ済まされないんだけど」
「だから、何でもないってば! 守護でお世話役のしーちゃんに迷惑なんてかけない!」
本当は助けて! って言いたい。
しーちゃんなら朱理に対抗できる。奈良ちゃんを守って、鏡を回収して。きっと、私が怖い思いをすることなんてないんだろう。
でも今の状態で、素直に甘えることなんて出来なかった。
立場を重んじてお説教じみた物言いをするしーちゃんに、よけい意地をはってしまう。
「ねー、」
「…………」
「こっち向きなよ。ちゃんと顔を見せて」
無事を確かめるみたいに両腕を伸ばし、私の頬に優しく触れたしーちゃん。
いつものサンダルウッドの香りが鼻をかすめて、ちょっと泣きそうになる。
でもこの不安を見透かされたくない!
私は強く振り払って顔を背けると、門をくぐってそのまま道場へと駆け込んだ。
「柏原、今から私に稽古をつけて!」
1年ぶりに道着に袖を通す私を見て、執事兼師範代の柏原は眉一つ動かさずに一礼した。
<<前へ 7話へ>>